新徴組
江戸のお巡りさん 新徴組 本部跡
当旅館は、庄内藩(現在の山形県庄内地方)の下、幕末の江戸の市中取締りの任にあたり、「お巡りさん」と呼ばれた浪士組「新徴組」が、戊辰戦争が始まり庄内藩の江戸引き上げと共に庄内に移り湯田川温泉の旅館・民家に分宿した際に新徴組の本部として使用された歴史があります。
新徴組士の書簡や弾薬箱などが残っており、新徴組に関する書籍や資料と共にロビーに展示してあります。
清川八郎
〜 新徴組・新選組の生みの親 〜

photo 清川八郎は、天保元年(一八三〇)十月十日、出羽国庄内藩領清川村(現在の山形県東田川郡庄内町清川)の酒造家斎藤冶兵衛の長子として生まれました。
 17歳の時に備前出身の勤王画家・藤本鉄石に感化をうけ、翌年江戸に上り、東條一堂塾・安積良斉塾・湯島の聖堂などで学び、また、剣は千葉周作の玄武館で北辰一刀流兵法免許を得た。その後、弱冠25歳で学問と剣術を一人で教える唯一の塾「清河塾」を開いた。
 延元年(1860年)桜田門外の変を契機に国士を志した清河は、幕臣・山岡鉄太郎らと「虎尾の会」を結成して攘夷を唱え、その後、幕府に献策を採用させ隊士の募集を布告、「浪士組」を発足させつつ、勤王の大義のもとに討幕を図ろうとする大謀略を着想した。そして、将軍・徳川家茂上洛の露払い役としての先発西上を果たした。その時、清河八郎の尊王攘夷の考え方に賛同した隊士は200人余りもいて、その中にはのちの新選組士芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らもいた。これが、後の新徴組、そして新選組の礎です。
 しかし、直後の生麦事件をきっかけに、江戸に戻ろうとする清河八郎と近藤勇、土方歳三、沖田総司ら試衛館の面々、芹沢鴨ら水戸藩士と対立し、事実上浪士組の分派として新選組が誕生した。  江戸にもどった清河八郎は、招待されていた上ノ山藩士・金子与三郎宅からの帰り道に幕府からの刺客によって暗殺された。享年34歳。
 清河八郎の暗殺後、浪士組は出羽国庄内藩主・酒井繁之丞忠篤に委任され、庄内藩預かりとして「新徴組」となった。
江戸の「お廻りさん」
photo 本格的に庄内藩の下級藩士に取り立てられた新徴組士と新徴組の任務は江戸の治安維持でした。武術に優れた剣客集団であった新徴組は貢献し、その活躍をたたえる句に「庄内藩 鶴ヶ岡松(徳川家)を堅固に守るなり」、江戸歌謡に「酒井左衛門様お国はどこよ 出羽の庄内鶴ヶ岡 酒井なければお江戸は立たぬ お廻りさんには泣く子も黙る」(小山松勝一郎『新徴組』)とある一方で「カタバミ(庄内藩主家紋章)はウワバミ(大蛇)よりも恐ろしい」(千葉弥一郎回顧録)、「恐ろしき者といふなる新徴組」(幸田露伴『風流仏』)と江戸市民からおそれられた。

新徴組と湯田川温泉
新徴組が湯田川温泉に来るきっかけとなったのは戊辰戦争の時でした。 慶応4年(1868)2月15日、新徴組は江戸市中の任を解かれ、庄内勝手方を命ぜられ、2月26日から順次庄内へ赴きました。当時の新徴組の規模は隊士136人、家族は311人でした。 3月14日に鶴ヶ岡(山形県鶴岡市)に到着し、15日からは湯田川温泉に仮住まいを始めました。庄内藩では宿屋と民家37軒に分宿させ、組役所を隼人旅館に置いて組士を監督、湯田川での生活はその後明治3年(1870)に大宝寺村に建設された組屋敷へ移住するまで二年半続き、その間、湯田川温泉を拠点に、新政府軍との数々の歴戦を制していきました。 湯田川には、今も在往中に亡くなった隊士やその家族など20名の墓地があります。


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